天智天皇5年(666)年、連合した唐と新羅は隣国の強国、高句麗の征討を開始しました。高句麗は危機的状況の中で外交使節団を大和朝廷へと派遣します。『日本書紀』には「二位玄武若光」の名が記されており、若光が使節団の一員として日本へと渡来した事が分かります。668年、建国から約700年間東アジアに強盛を誇った高句麗は滅亡し、若光は二度と故国の土を踏むことはありませんでした。その後、大和朝廷に官人として仕える若光の名が文献に表れるのが『続日本書紀』大宝3年(703)年3月「従五位下の高麗の若光に王の姓を賜う」です。姓(かばね)とは、それぞれの家柄を定めるために大和朝廷が授与する称号で、王(こきし)の姓は外国の王族の出身者に与えられていたものでした。
天智天皇5年(666)年、連合した唐と新羅は隣国の強国、高句麗の征討を開始しました。
高句麗は危機的状況の中で外交使節団を大和朝廷へと派遣します。『日本書紀』には「二位玄武若光」の名が記されており、若光が使節団の一員として日本へと渡来した事が分かります。668年、建国から約700年間東アジアに強盛を誇った高句麗は滅亡し、若光は二度と故国の土を踏むことはありませんでした。その後、大和朝廷に官人として仕える若光の名が文献に表れるのが『続日本書紀』大宝3年(703)年3月「従五位下の高麗の若光に王の姓を賜う」です。姓(かばね)とは、それぞれの家柄を定めるために大和朝廷が授与する称号で、王(こきし)の姓は外国の王族の出身者に与えられていたものでした。
若光の渡来から半世紀を経た霊亀2(716)年5月16日、大和朝廷は駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、
上総・下総(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)の七国から高句麗人1799人を武蔵国に移し「高麗郡」を創設(続日本書紀巻第7の記述)。この時、若光は郡の長官に任命されました。若光は郡内の高麗人をよく指揮し、未開の地を開発し、この地で波瀾の生涯を終えました。郡民はその徳を偲び、その霊を祀り、高麗郡の守護神としたのです。
高麗郡の郡長となった若光は郡民を指揮し未開の地の開拓を進めました。近代に至り、この史実に惹かれ、政治家、文学者、歴史家ら多くの参拝者が訪れます。更に参拝後に内閣総理大臣に就任した政治家が相次いだことで、「出世明神」と称されるようになりました。現在では様々な分野で活躍を目指す人々の崇敬を集めております。また、御祭神 高麗王若光の子孫である高麗氏は、1300年・60代に渡り家系血脈が続いており、代々当社の祭祀を司ってきました。こうした若光の子孫の由来に因みから当社は「子孫繁栄・子授け祈願」はもとより、「安産・初宮・七五三・成人奉祝・年祝」など人生儀礼での参拝も多く、篤い崇敬を受けております。
音声ガイド
境内の10か所を音声で説明いたします。 1か所1分ほどの内容です。 日本語・英語・韓国語・中国語があります。 なお、この「音声ガイドシステム」は、 スマートフォンを使用して境内を散策しながら、 お聞きいただく仕様となっております。 ホームページの説明には無い、他の見どころも紹介しています。
川越町大本営において天覧に供す。
昭和14年4月24日
斎藤 實/若槻禮次郎/浜口雄幸/平沼騏一郎/鳩山一郎/小磯国昭
最高裁判所長官 石田和外
太宰 治/坂口安吾/尾崎紅葉/幸田露伴/柳 美里/岡本一平/野田宇太郎/加倉井秋を/喜多郎/大山倍達/坂東三津二郎 他多数
工学博士 伊東忠太//早稲田大学教授 五十嵐 力/國學院大學教授 折口信夫
山頂の水天宮は、江戸時代に水天宮の御分霊を勧請したものと伝えられています。広く水に関わる御神徳があり、水が汚れを洗い流し生命を育むことから、安産・子育て・無病息災・水難除けに霊験あらたかと言われます。高麗神社の例祭では、高麗神社社殿に続き水天宮でも獅子舞が奉納されます。こうしたことから水天宮の鎮座地は、古くから重要な拝所であったと考えられています。
毎年:10月19日 14:00頃江戸時代より氏子たちが世代交代を繰り返し、400年に渡り伝えてきた獅子舞。中でも主に未成年の若者が子獅子に扮する『宮参り』は、本殿から山上の水天宮へ登り、日頃の感謝と御神威の発揚を願います。この時、共に登頂した七歳までの子どもたちへ子獅子の役者たちが御印をお授けいたします。この御印を額に授けられた者は、高麗神社と水天宮の神様のご加護を受け、1年間『無病息災』の霊験を授かるといいます。
水天宮 御朱印授与日:毎日初穂料:500円水天宮参拝の証としてお受けください。
水天宮鈴守 700円
水天宮御守 700円
洗心紙 100円紙に書かれた清めの文字をなぞり、水に溶かして心身を洗い清めます。
高麗家は高麗神社の神職を代々務めてきた旧家で、住宅は境内の隣接地にあります。建築年代は、慶長年間(1596~1615)と伝えられています。建築様式は古く、17世紀のものであることは確実と指摘されています。
東日本の民家の中では古い形を遺している極めて重要な例とされ、昭和46年(1971)6月に重要文化財に指定されました。永年の風雪に耐えて伝えられてきたものの、傷みがひどくなっていたため、昭和51年(1976)10月から昭和52年9月にかけて、建物の全解体による根本的大修理が行われました。現在の姿は、その修理工事の際に建設当時の姿を復元したものです。
建物は茅葺きの入母屋造りの平入りで、その大きさは桁行七間半、梁間五間で長方形の平面をなしています。間取りは、土間と5つの部屋で構成されています。大黒柱(棟持柱)がなく、細い柱で梁を支えているのが特徴で、桁と柱には杉、梁にはケヤキ・松が用いられています。手斧(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)が使用され、全面的に丸みを帯びた仕上げになっています。